一人だけど一人じゃない?書庫版

そこはもう無いけれど、私はそこに居たから。

かつて傘だった物のはなし

 
 その昔、私は傘だった。

 降り止まない雨を避けながら、それでもどうしても隠れ切れない時に、あなたが雨に濡れない為の一時的な傘だった。

 私はその為の傘だった。だから、雨に濡れるのが好きだった。
 そしてつい欲張りになって、雨の中へ出て行きたいと思ってしまった。
 雨宿りの屋根から飛び出して、その雨を浴びたいと思ってしまった。

 優しいあなたはそれを許してくれた。私の為に腕を伸ばし足を伸ばして、私の行きたい方へ私を運んでくれた。
 跳ねる音が、濡れた肌が心地よくて、どんどん舞い上がっては、ついに屋根の下からあなたを引き摺り出す程まで躍り出てしまった。

 私はただ楽しんでいた。
 この降り注ぐシャワーが、あなたにとっては、身体を焼く酸の雨だという事すら忘れて。

 私は空だけを見ていた。あなたが焼ける痛みに耐えている事すら気付かずにどこまでも、外へ外へ、ただ遠くを見ていた。

 もう、無かった事にはならない。あなたの爛れた傷も、振り回して壊した物も。屋根の下へ戻ろうにも、こんな所まで来てしまった。

 私は傘だから、あなたに差してもらわなければ雨に当たる事も出来ない。
 ひとりで翅を広げる事も、歩くことさえ出来ない。

 あなたはもう、雨の中傘を差さなくともこの先へ歩んでいく方法を見つけているのに、私を棄ておこうとはしない。酸に焼かれようと、私をまた雨の中へ連れ出してくれる。もう要らないのに、棄てて行ってしまう事も出来るのに。

 本当はきっと、それが正しいのに。


 この雨が、晴れたらいいなとずっと思っていた。あなたがもう濡れなくてもいいように、止む時を確かに望んでいたのに。

 此処に捨て置かれる事が正しいのだと、それ以外の考えが浮かばない。優しいあなたがそれを選ばない事を知っているけれど、傘である私には自ら棄てに行く事すら出来ない。

 雨は止まない。けれどもう、あなたはこの道を歩かなくていい。
 捨てられないと言うのならせめて、閉じたままでその傍らに提げて行って欲しい。

 あの雨が恋しくないと言えば嘘になる。
 だけどそれ以外に、私が何を望めると言うのだろう。
 人を刺す槍と化し、あなたを苦しめる呪いと化してしまった、今の私に。
 あなたが耐えてくれた分、今度は私が雨の恋しさに焼かれる番なのだ、きっと。
 そうじゃないと、これからもずっと、あなただけが痛いままな気がするから。


 だけどあなたは、こんな私の選択を
 『そんなのきっと正しくない』
 と、連れ戻すのだろう。